執筆者:ライアン・ゴールドスティン
アメリカの新学期が始まる、9月。
私がハーバードのロースクールに入学したのは今から15年も前になる。ロースクールの特徴とも言えるソクラテスメソッドを用いた講義では、判決などの実例について教授から問いを投げかけられる。何が飛び出すかわからない準備のできない講義、教授との攻防に緊張の毎日が続いたのを覚えている。咄嗟の判断を求められる訴訟弁護士には良い経験だった。
ロースクールに入学するには、LSAT(Law School Admission Test)の結果と大学の成績GPA(Grade Point Average)が評価の対象になる。アメリカのロースクールを目指したことのある人ならご存知かと思うが、LSATで法律の知識の有無について問われることはない。試験はおおむね4項目に分かれていて、与えられた問題を即座に分析し、それを論理的に展開する能力などが求められている。
さらにエッセイでは、個人のバックグラウンドや人間性までが明らかになる。たとえば、何故弁護士になりたいのか、また私が弁護士になったらどうしたいという夢を語ることは多くの人が思いつくテーマではあるけれど、それでは突出することはできないので、自分を試験官に印象付けたいならあえて避けたいところ。そこで、私は友人にもあまり話さないようなこれまでの経験を語ることにした。私は、父親のことをテーマにしたのだ。
父親について、どんな話を書いたのかはここではあえて語らないが、訴訟弁護士になった今、こうした試験の必要性や「現場で闘う弁護士」に本当に必要なものは何かを検証してみた。
弁護士は、ある意味でサービス業である。
アメリカの裁判では、陪審員の前で自身のクライアントのことについて話さなければならない。クライアントが良い弁護士を選ぶときには、裁判の際に、自分の雇用した弁護士の「存在」がどれくらい有利に働くかは、言うまでもなく重要な判断材料になる。
証拠として提出される莫大な資料の中から、状況を即座に、しかも正確に把握して理論的に分析し、適切な答え、問題点を見出す。さらに法廷では、自らの建設的な議論を展開する能力に酔いしれることなく、陪審員にわかりやすく表現できるかどうかが鍵になる。
これは弁護士としての「スキル」という点での評価だろう。
そして、もうひとつは「相性」のも少なからず評価の対象になると私は考えている。クライアントとは一日中顔を突き合わせなければならないこともある。
自分の雇用した弁護士が、どんな冗談を言うのか、上品なのか下品なのか、人間的に信頼に足りうる人物なのかと言った「相性」は、無意識に判断され、「もう一度仕事をしたい」と言った「次につながる評価」は常に下されている。
こうした資質が、備わっているかどうかは、残念ながら「法律の知識」があるかどうかだけでは判断できない。
だからこそ、「法律の知識が豊富」であるというその一点のみで、弁護士を判断してはいけないのではないか。
現在、日本では新司法試験の合格率が上がり弁護士が増えたせいで、仕事のない弁護士があふれ、刑事事件を起こし逮捕者まで出ていると一部報道で言われているが、本当に弁護士が「増えた」ことがこうした問題を引き起こしているのだろうか。
確かに旧司法試験の合格率を考えれば、新司法試験の合格率は格段に上がり、その分多種多様な人材が世に送り出されているが、難関である旧司法試験に合格した人が人間的に素晴らしい人とは限らないし、非常識な人だっている可能性はある。
裏を返せば、新司法試験の導入によって、成績はかつての合格者ほどでもないが、一般常識を持ち、人間的に素晴らしい人にも門戸が開かれたとは言えないだろうか?
しかも、弁護士が法廷で扱うのは、「現実社会」で起きている一般的な人々が抱えている問題だ。
私の経験から言えば、クライアントの話を聞いていると、この法律にきれいに当てはまるということは現実的にはない。完璧に契約違反だと判断しかねる問題に直面し、判断が難しいからこそ訴訟になっている。さらに、原告側、被告側がお互いに違う意見を持っているのだから訴訟になる。
クライアントにとっては、法律についての知識を蓄えている弁護士よりは、現実社会を把握し、それに即して法律の知識を生かしてくれる弁護士のほうが必要なのだ。
日本の新司法試験に義務付けられている法科大学院での教育は、アメリカのロースクールを手本にし、適性試験もLSATを研究し、これをもとに作成されているので内容的にもほとんど、LSATと差がないと聞いている。
旧司法試験と違って、大学時代に別の経験をしてから弁護士を目指そうと思いたっても、弁護士になれる確率は格段に広がった。
ここで私が言いたいのは、アメリカの形式に似たステップが日本にも導入されたので、日本の法曹界も良くなるだろうということではない。
人材が豊富になるという見通しはできたが、アメリカ、日本を問わず、現状の各国の司法試験に合格しただけでは、まだ「現実社会で闘える優秀な弁護士」を見極められると思ってほしくないということだ。
弁護士として働くためには、司法試験の次に待っているのは「法律事務所」に入るための就職試験である。
選に漏れず私も新人だった時代があり、ジョブインタビューをいくつも経験してきた。
「自分の欠点を話してください」これは、最も多く私が聞かれた質問だが、正直、愚問だと思っていた。試験で自分をよく見せたくない人はいないし、おおむね、その答えは似たり寄ったりだ。そんな中、私がこれはと思う質問をしてくれたのは、我々の事務所のウィリアム・アークハートだった。彼はまるで友人でも誘うかのように、クロワッサンをほおばりながら、趣味の話などを投げかける。こうした演出に安心して自らのことを話したくなったのが彼だった。結局、10か所ほど内定をもらった事務所の中からクインエマニュエルを選ぶことになったのは、この人と仕事をしたいと思わせた彼の作戦勝ちかもしれない。
そして、私は弁護士としての経験を積み、前出のとおり「日常の一般的な会話」がいかに大切かを痛感したのだ。
私は現在、インタビュアーとして、ジョブインタビューに臨むことがあるが、これらの経験から彼らに「法律の知識」について聞くことはない。
日常のありふれた話題を俎上にのせ、話題によっては、別の同僚を部屋に呼び、彼らを巻き込んでワイワイとやる。成績は優秀だとわかっているし、優秀な仕事ぶりも推測可能だが、一番知りたい同僚たちとうまく仕事ができるかどうかや自分の意見を持っているかどうか、つまり他者との調和と個人のバランス感覚を見抜きたいからだ。
時には、採用してほしいとガチガチに緊張している学生に、「緊張しなくていい。それからこれまで話したことのある台詞は使わないで」と促すことがある。これで、何を求められているかに気がついてリラックスできる人とは一緒に仕事をしてみたいと思う。
直接、顔を突き合わせて話してみないとわからないのが人間性。ビジネスの現場で他人同士がそれを知る手段はインタビューだと私は考える。会話をする時間を軽視せず、むしろそこに大切な鍵が潜んでいると思ってほしい。
弁護士は、法律を使って「人間」を相手にしているのだから。